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お歳暮 源頼朝、義経追討の命令を出す・「日本外史」のうち「北条記の巻 和書
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江馬細香の2つの印「細香」「湘夢」
緒方洪庵の「滴々斎」の落款
断層画像写真
江馬細香 美術年鑑の評価額
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隷書体による「日本外史」江馬細香・自筆
自筆下部に江馬細香の落款(印譜)「細香」と「湘夢」がある。
(自筆の凹凸はストロボの反射によるものです。
「自筆原本」
原本下部の2つの印は、江馬細香の「細香・湘夢」の落款。
《江馬細香・自筆「日本外史」北条記》
原本の来歴及び国内所蔵数については下記に記載
海外展示に際し、断層写真により分析されております。
出品した自筆は、アメリカで撮影された下記「断層(MRI)写真」においてわかる通り、微細な曲線をも精緻に描いた極めて美しい芸術性の高い日本語の優れた文字としても高い評価を受けております。「断層(MRI)写真」によって、古切の書の詳細を知ることができます。
賴朝途還。以千餘騎護京師。於是以賴朝意奉請。
莊園置地頭。弗被允。終被允。已而辭之。大亂初平。時政身當其衝。餘東歸。亦賴朝意也。射中走鹿。使人報之政子。彼將家冑子。何煩專使。
正治元年。賴朝伏。政子削髮爲尼。時・・・・《政敍從五位下》
漢文の文責・出品者
注記・漢字が難字(旧字)の場合、システムの関係でエラーとなり画像に反映されない場合があります。「原文の読み下し文」と「現代語訳解読文」は、漢文の文字(難字・旧字)を正確に反映しております。
《日本外史 巻之四 源氏後記 北条氏》
初めの如し。
文治元年 (1185)冬、親ら将として之を京師に撃たんとす。
頼朝 途にして還る。
四もに索むれども獲ず。允されず。
已にして之を辞す。
時政(ときまさ)、身、其の衝に当り、事立ちどころに弁ぜざる無し。詔を以て、從弟時定(ときさだ) を拳げて、自ら代らしむ。
頼朝(よりとも)、嘗て富士野に猟す。
頼朝、大に喜び、人をして之を政子(まさこ) に報ぜしむ。一禽を獲たるに、何ぞ專使を煩さん」と。
正治元年 (1199)正月、頼朝(よりとも)失す。
政子(まさこ)、髪を削りて尼と為り、而して政事を与り聞く。
《日本外史 巻之四 源氏後記 北条氏》
《源頼朝、鎌倉に幕府を開く》
《源頼朝、義経追討の命令を出す》
《北条時政は、鎌倉に戻って来て、頼朝に親しみ
信頼されることが》・・・・初めの頃と同様であった。
文治元年(1185年)冬、自ら将として京師で義経を撃とうした。頼朝は、途中で引き返し、時政を遣わし、
千余騎を率いて京師を護らせて、そして四方を捜索したが、義経を捕まえられなかった。
だが、許されなかった。
その内に、時政は、これを辞職した。
時政は、自ら重要な職務を引き受けて、あらゆる仕事を立ちどころに片付けた。詔を受けて、時政は、従弟(いとこ)の時貞を推挙して、
自らの代わりにしたが、これも頼朝の内意であった。頼家は、この時十二歳になったばかりで、走る鹿を射て命中させた。政子は言った、「彼は、将軍家の嫡子です。
頼朝は、これを恥じた。
頼家が立って家を継いだ。
時・・・・・《政は、従五位下に叙されて、遠江守に任じられて、政所の別当となった。
「序文の記載年号、落款、花押、及び隷書体の資料」
写真右から隷書体の「曹全碑」写真。日付左の印は、大垣藩医・江馬蘭斎の娘、江馬細香の号である「湘夢」の落款。その左が「湘夢」の落款。左端は、江馬細香・自筆の評価額・出典・「美術年鑑」古美術名家撰851頁(美術年鑑社・刊)
上の写真は額縁裏面のラベル
下の写真右端は巻四冒頭の部分
下の写真左のうち上段は緒方洪庵の号「適々齋」
下の写真左のうち下段は仙台藩の家紋竹に雀の落款
上の写真は、江馬細香の肖像。校正個所は頼山陽
「日本外史」は本来、二十二巻から構成される冊子本であるが、出品した自筆の体裁は、一巻から七巻までを長尺の一巻の「巻物」として、合計三巻の「巻物」となっている。序文に記載されている日付は、文政十年(1827)五月二十一日である。
この自筆は、大垣藩の藩医・江馬蘭斎の娘で頼山陽の弟子・江馬細香の旧所蔵「日本外史」を頼山陽と親交があり、また尊敬をしていた仙台藩の大槻磐渓が譲り受けた「隷書体」の貴重な自筆です。出品して「日本外史」自筆は、隷書体による「日本外史」として初めてのものであり、貴重な隷書体の書として身近なものとして鑑賞することができます。上の「拡大断層(MRI)写真」でわかる通り、極めて薄い和紙の上に墨の文字がくっきりと浮き上がるように「日本外史」の文字が記されております。落札後には、見やすいようにA4サイズの「光沢紙」に転写し交付いたします。日本国内では医療用以外には見ることのできない書の「断層(MRI)写真」です。撮影後、展示のために再表装をしております。
頼山陽(1780~1832)は、文化11年(1814)35歳のおり、京都の医者であった小石元瑞(1784~1849)の養女・梨影(りえ)を妻に迎えている。小石元瑞は、仙台藩の侍医・大槻玄沢(1757~1829)に師事していた関係で、玄沢の次男・大槻磐渓(1801~1878)とも親しくしている。頼山陽の文政10年(1827)3月27日の日記(頼山陽46歳)には、「雨、大槻磐渓来訪」と記され、翌3月28日の日記には、頼山陽、大槻磐渓、小石元瑞ら18名で「夜桜」見物をしていることが記されている。
「二十八日、新晴、二賴(山陽と杏坪)及び諸氏に陪して平野に遊ぶ。乃ち榻を花下に移し、張飲一場、頽然、皆酔ふ。遠近映発して煌々昼の如し。これは、大槻磐渓の個人的な依頼によるものではなく、仙台藩への献上品として前もって依頼し、この日に受け取っていることがわかる。また、頼山陽が仙台藩への献上について記していないのは、前老中の松平定信への献上が約束されており、山陽の自筆文を松平定信の前に仙台藩に献上することに遠慮があったものと推定されている。磐渓は、「日本外史」を手書きによって書き写したのは、尊敬する頼山陽の業績を自らの手で確認したいとの思惑があったのではないかと考えられる。一部の自筆が緒方洪庵の手許に渡っていることがわかる。緒方洪庵自身も一部を所蔵し、大切に読みこなしていたことをうかがい知ることができる。洪庵は文化7年(1810)7月14日生~文久3年(1863)6月10日没。外国での展示に際し、上記「NIKHON GAISI」の表記ではなく、日本の国外における表記に準じ、「NIHON GAISHI」と表記。そのノートは、ケンブリッジ大学アストン文庫に残っている。このような断片を「古切」という。「日本外史」は、元来、大槻磐渓の書として冊子や巻子(かんす)で伝えられたものが、鑑賞用として「茶人」の好みにより「掛軸」、或いは屏風に仕立てられ茶道具として用いられた。
国内における所蔵先等
出品作品と同じ「日本外史」の写本は、国立国会図書館(村瀬秋水・写)、東京大学、京都大学、大阪府(1冊のみ)など8箇所に現存。ただし、いずれも「真書体」「楷書体」で、「隷書体」の「日本外史」自筆は、本出品の自筆は日本国内でただ1部現存するのみ。一部が日本に戻り後の大半はまだアメリカで展示されております。この字を記したのは、仙台藩医・大槻磐渓である。
蘭斎は、江戸での学業を途中で打切り大垣藩の藩医となる。大垣藩で蘭医として名声の上がっている江馬蘭斎の許を頼山陽が訪れ蘭斎の娘・江馬細香に求婚するが父・蘭斎が断る。しかし、細香は頭脳明晰で漢文や詩文をこよなく愛し、その後頼山陽に弟子入りしている。「日本外史」は「文政十年(1827)五月二十一日付」で白河藩主・松平定信に献上したものだが、献上以前に並行して仙台藩からも求められ頼山陽が弟子の江馬細香に写させていたと推定されている。また、大槻磐渓は、文政十年(1827)より以前に序文のない下書の「日本外史」を入手し「楷書体」による写しを進め、後年、前記の通り、磐渓の父の弟子である緒方洪庵に渡っていることがわかっている。しかし、アメリカでの展示に際しては、科学的な筆跡全体の照合が条件として追加される。このため、細香の他の隷書体の文字との照合ができないため、海外展示に際し、「江馬細香・旧所蔵」とし、「Ema Saikou・Autograph(江馬細香・自筆)」とはしていなかった。この結果、「江馬細香・自筆」と説明欄に追記した。
一方、欧米では一般的には、「筆者識別(Handwriting Analysis)」と呼ばれる文字解析をコンピューターの数値によって解析しております。解析の基準となるのが「ドーバート基準」で、アメリカでは日本国内の画像データを自動的に収集、自筆の分析に際し、数値データをコンピューターで自動的に解析し「極似」した画像データによって筆者を識別する研究が進んでおります。資料として断層画像写真を出品欄に掲示しております。
上記英文の日本語訳は、「日本外史・1827 江馬細香・自筆」
出品に際しては、アメリカの基準に準拠し説明欄に記載している。13代将軍家定の正室候補にあげられていた薩摩藩主・島津斉彬の娘・篤姫は老中たちの強い反対に遭遇していた。安政元年の春、薩摩藩江戸屋敷に水戸斉昭、山内豊信、伊達宗盛、松平春嶽などの幕府老中たちが薩摩藩主・島津斉彬を囲み「花見の宴」を開いていた。老中たちへの挨拶に訪れた篤姫に対し、水戸斉昭が篤姫の愛読書「日本外史」について質問する。老中諸侯の反対論が一蹴されたことはいうまでもない。
水戸斉昭や伊達宗盛はこの時の様子を日記に記し、また篤姫の正室入りに最も強く反対していた福井藩主・松平春嶽は「斉彬公行状記」の中でこの時の篤姫の様子を「聡明にして温和、人との応接も機智に富み、学問(日本外史)深し。昭和11年初版。■造り函。後年、江馬細香の漢詩が掛軸となり茶の道具として用いられるようになるのは、こうした歴史的背景がある。出品以外の所蔵品を紹介した出品者のホームページ「源氏物語の世界」をご覧ください。